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長万部と室蘭を結ぶ路線として着工。当初工期は1919(大正8)年から1926(大正15)年を予定し7工区に分けて計画されたが、トンネル掘削のため工期は伸び工区も細分化されていった。本区間にある'''岩見'''・'''茶津'''・'''達古武'''の3トンネルは第4工区乙(礼文駅-辨辺駅)に属し、いずれも容易に工事は進み1927(昭和2)年10月にこの工区は竣工している。同じ工区には他に[[辨邊 | 長万部と室蘭を結ぶ路線として着工。当初工期は1919(大正8)年から1926(大正15)年を予定し7工区に分けて計画されたが、トンネル掘削のため工期は伸び工区も細分化されていった。本区間にある'''岩見'''・'''茶津'''・'''達古武'''の3トンネルは第4工区乙(礼文駅-辨辺駅)に属し、いずれも容易に工事は進み1927(昭和2)年10月にこの工区は竣工している。同じ工区には他に[[弁辺|辨邊]]トンネルがある。1928(昭和3)年9月10日に最後の区間が開通し長万部と室蘭が77.2kmの鉄道で結ばれたことにより、[[函館本線]]よりも平坦な線で道央・道南を結ぶことのできるようになり、非力な機関車での輸送量増強に大きく寄与した。 | ||
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== 鉄道2代目 == | == 鉄道2代目 == | ||
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工事は1972(昭和47)年6月着工。鉄道2代目は礼文駅を出て山側に分岐し'''礼文浜トンネル'''を抜け、鉄道1代目に並行した明り区間を挟み、続いて'''新達古武トンネル'''を通過し鉄道1代目に合流し大岸駅に至る延長約3.2km。トンネル掘削土は盛土部に利用されている。礼文浜トンネルの施工は難航したが1975(昭和50)年10月に工事区間が竣工、10月22日に供用を開始した。 | 工事は1972(昭和47)年6月着工。鉄道2代目は礼文駅を出て山側に分岐し'''礼文浜トンネル'''を抜け、鉄道1代目に並行した明り区間を挟み、続いて'''新達古武トンネル'''を通過し鉄道1代目に合流し大岸駅に至る延長約3.2km。トンネル掘削土は盛土部に利用されている。礼文浜トンネルの施工は難航したが1975(昭和50)年10月に工事区間が竣工、10月22日に供用を開始した。 | ||
=== 礼文浜トンネルの施工 === | === 礼文浜トンネルの施工 === | ||
礼文浜トンネルの起点側は礼文華の市街地が接近、また道道もすぐ横にあり坑外設備が置けなかったため掘削は終点側から行われた。はじめ掘削は問題なく進んでいたが起点側付近は湧水を含む軟弱地盤の急斜面下を浅い土被りで貫く難しい区間であった。それまで底設導坑先進で掘削を進めていたが、ここを掘り抜くために側壁導坑先進に改め導坑の掘削を進めていた。2本の導坑のうち山側は無事貫通したが、海側の導坑は施工中に変状が発生し補強を施したが次第に先に貫通していた山側の導坑にも変状が現れた。さらには地表にもクラックが入り地すべり発生が予想されたため道路1代目は一時通行止めの措置がされ対策工事が行われた。対策は検討の結果、計画トンネル上の斜面の切土と海側にはおさえ盛土であった。こうして海側の導坑も貫通し本掘削も進められた。地表からの距離は最短で1. | 礼文浜トンネルの起点側は礼文華の市街地が接近、また道道もすぐ横にあり坑外設備が置けなかったため掘削は終点側から行われた。はじめ掘削は問題なく進んでいたが起点側付近は湧水を含む軟弱地盤の急斜面下を浅い土被りで貫く難しい区間であった。それまで底設導坑先進で掘削を進めていたが、ここを掘り抜くために側壁導坑先進に改め導坑の掘削を進めていた。2本の導坑のうち山側は無事貫通したが、海側の導坑は施工中に変状が発生し補強を施したが次第に先に貫通していた山側の導坑にも変状が現れた。さらには地表にもクラックが入り地すべり発生が予想されたため道路1代目は一時通行止めの措置がされ対策工事が行われた。対策は検討の結果、計画トンネル上の斜面の切土と海側にはおさえ盛土であった。こうして海側の導坑も貫通し本掘削も進められた。地表からの距離は最短で1.5mしかなく掘削中に木の根混じりの表土に遭遇する程であったという。 | ||
=== 供用中の崩落事故 === | === 供用中の崩落事故 === | ||
==== 発生 ==== | ==== 発生 ==== |