稲里

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いなさと
稲里

北海道 トンネルwiki ID:141765

日高方坑口
日高方坑口

基礎情報
map_inasato.png
振興局
Temp map iburi subpref.png 胆振
総合振興局
起点
住所 勇払郡むかわ町穂別長和
座標 42.883482,142.209392
終点
住所 勇払郡むかわ町穂別長和
座標 42.877389,142.224643
図名
20万 5万 2.5万
夕張岳 紅葉山 稲里
用途 道路
路線名 一般国道274号
管理者 室蘭開発建設部日高道路事務所
施工者 飛島・伊藤特定建設工事共同企業体(1977-1981)
清水・岩倉特定建設工事共同企業体(1979-1981)
飛島・伊藤・東急特定建設工事共同企業体(1982-1984)
清水・岩倉・盛永特定建設工事共同企業体(1982-1984)
設計者 北海道開発コンサルタント
工事費 64億900万円
着工 1977(昭和52)年6月
竣工 1984(昭和59)年10月
開通 1985(昭和60)年
現況 現役
延長 1,441.00m

Temp cross section road.png
総幅員
=8.50m
車道幅員
=6.00m
中央高
=6.02m
有効高
=(N/A)
建築限界高
=4.5m
掘削
工法
NATM
矢板
覆工 Co
舗装 Co T=20cm
照明 ナトリウム×225
換気 ジェットファン×28
排水 サイドドレーン
等級
Temp tunnel class B.png
非常用
設備
あり


稲里トンネルは国道274号の夕張山地中にある道路トンネル。

1965(昭和40)年10月、日勝峠にトンネルが開通し札幌と十勝を結ぶ最短の道路が確保され、5年後の1970(昭和45)年には国道274号に指定された。この頃の国道274号は日高山脈を越える日高 - 清水間が開通したに過ぎず、日勝峠開通の翌年には夕張 - 日高間の整備事業を始め、さらなる距離短絡を目指した。夕張山地を抜ける約35kmの未開通区間にいくつもの山稜を控え難工事が予想された。トンネルは起点から順に挙げると登川長和稲里モトツ福山穂高日高の各トンネルが掘られた。本トンネルはきわめて大きな膨張性の蛇紋岩をふくみ従来工法(矢板工法)での建設が不可能であったことから一部にNATM工法を採用した。北海道でNATM工法を採用した道路トンネルは本トンネルが初めてであり、坑口にはその旨が銘鈑に記されている。なお鉄道トンネルまで範囲を広げると蘭法華トンネルの方が先である。本トンネルを含む穂別稲里 - 穂別福山の10.6kmは1985(昭和60)年に開通、残る19.8kmも1991(平成3)年に開通し、札幌と帯広が最短の一般国道で結ばれた。

地勢

夕張山地の南部、南北方向に伸びた尾根を横断する。札幌方向からはむかわ町穂別稲里地区の穂別ダムから東へ向かい「高西の沢川」沿いに登り標高約310mで本トンネルへ至る。トンネル延長1,441mを方勾配で登り、帯広側坑口は標高約350m。鵡川の支流「オロロップ沢川」に沿って標高を下げ、穂別福山地区へ至る。

札幌側の2/5は第3紀層の堆積岩、帯広側の3/5は神居古潭帯の蛇紋岩と片岩であり、両者は断層破砕帯で接している。

新設工事

試験工事

前述の通り本トンネルは蛇紋岩地帯を介在し、工事は難工事になることが見込まれていた。よって本工事着工前には地盤特性をよく把握し、またそれまで経験が全くなかったNATM工法施工のための資料を得ることを目的とし、試験工事が実施されることとなった。蛇紋岩を多く含む帯広側の導坑において坑口よりL=59.55mを矢板工法で掘削し、続くL=26.70mには矢板工法の試験区間、次のL=55.93mにはNATM工法の試験区間を設け、断面・支保工・吹付コンクリート・ロックボルトの条件を様々変え施工した。また導坑でのデータ収集後は本断面の掘削もNATMの試験区間とした。1979(昭和54)年8月から導坑試験が行われ、NATMの有効性が実証されたことから工法がNATMに決定し、1980(昭和55)年度に本断面試験が行われた。本断面試験に基づきロックボルトの設計を若干変更し本工事に臨むこととなった。

本工事

試験が行われていた側とは逆の札幌側坑口は先行して1977(昭和52)年に着工し、第3紀層の堆積岩中を矢板工法の側壁導坑先進上部半断面でL=501m施工した。1979(昭和54)年度・1980(昭和55)年度には前述の通り帯広側坑口で試験工事を行い、1981(昭和56)年5月からは残る区間もNATM工法による施工を順調に続けた。しかし1982(昭和57)年度の後半には雲行きが怪しくなってきた。蛇紋岩による膨張性の土圧により変状をきたし、土圧はますます増加を続けた。翌1983(昭和58)年度にはこれまでの設計パターンでは掘削が行き詰まり断面確保も難しくなり、ボルトの追加や補助工法を用いることで対処した。1983(昭和58)年11月貫通、1984(昭和59)年10月竣工。