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当トンネルを含む鉄道は1936(昭和11)年「十勝國御影附近ヨリ日高國右左府ヲ經テ膽振國邊富内ニ至ル鐵道」(鉄道敷設法別表第142号の2)に則り「辺富内線」という名で建設が始まり、鵡川上流地域の開発及び東道・道南地域を結ぶことを目指して作られた。既成の鉄道として鵡川駅 - 富内駅に富内線があったので、これを延長する形で建設が始まった。始め地質は均一であると考えられており、掘り易さは特に鑑みず、単にトンネル区間が最も短くなるようにルートが選定された。土圧も強力であるとは知られていなかったので断面はごく一般的な1号型と呼ばれる単線馬蹄型だった。当初計画では延長979.23m、巻圧は坑口部で0.45m、中間部で0.3m。しかし工事を進めるにつれ断面はインバート付きになり、抱がつき、最後には完全な円形となり、覆工の巻厚は最大1.20mに及ぶこととなる。尚1940(昭和15)年9月堀内組と建設工事の契約を結んでいたが未着工のまま解約し直轄工事へと変更された。
当トンネルを含む鉄道は1936(昭和11)年「十勝國御影附近ヨリ日高國右左府ヲ經テ膽振國邊富内ニ至ル鐵道」(鉄道敷設法別表第142号の2)に則り「辺富内線」という名で建設が始まり、鵡川上流地域の開発及び東道・道南地域を結ぶことを目指して作られた。既成の鉄道として鵡川駅 - 富内駅に富内線があったので、これを延長する形で建設が始まった。始め地質は均一であると考えられており、掘り易さは特に鑑みず、単にトンネル区間が最も短くなるようにルートが選定された。土圧も強力であるとは知られていなかったので断面はごく一般的な1号型と呼ばれる単線馬蹄型だった。当初計画では延長979.23m、巻圧は坑口部で0.45m、中間部で0.3m。しかし工事を進めるにつれ断面はインバート付きになり、抱がつき、最後には完全な円形となり、覆工の巻厚は最大1.20mに及ぶこととなる。尚1940(昭和15)年9月堀内組と建設工事の契約を結んでいたが未着工のまま解約し直轄工事へと変更された。
=== 幌毛志方坑口の着工 ===
=== 幌毛志方坑口の着工 ===
1941(昭和16)年1月15日幌毛志方坑口から直轄工事で着工し、方押しでの掘削が始まった。坑口付近の地山が地すべり地形で切り取りが困難なため坑口を計画から20m延長し底設導坑を掘り始め、これは3月18日には坑口から80m付近に達していた。しかし土圧が強大で膨張し押し出した地山によって支保工はことごとく破壊され、常に地山を切拡げ支保工を補強する作業に追われ、遂にはこの導坑は押しつぶされ放棄を余儀なくされた。
1941(昭和16)年1月15日幌毛志方坑口から直轄工事で着工し、片押しでの掘削が始まった。坑口付近の地山が地すべり地形で切り取りが困難なため坑口を計画から20m延長し底設導坑を掘り始め、これは3月18日には坑口から80m付近に達していた。しかし土圧が強大で膨張し押し出した地山によって支保工はことごとく破壊され、常に地山を切拡げ支保工を補強する作業に追われ、遂にはこの導坑は押しつぶされ放棄を余儀なくされた。
=== 横坑の着工 ===
=== 横坑の着工 ===
次に1941(昭和16)年4月6日幌毛志方坑口近くで横坑の掘削に着手し、5月6日に本坑幌毛志方から106m地点に取り付き再び本坑の掘削に入った。本坑は完全に土圧で押しつぶされており、横坑も次第に圧縮されたため同年10月・翌年3月・翌々年10月には縫い返しを行った。横坑の完成後、本坑幌毛志方坑口からは1942(昭和17)年12月5日、横坑側からは21日の着工で、放棄されてから1年9箇月ぶりに本坑の掘削に入った。3.6m進捗するごとに切り拡げを行い、場所打ちコンクリートで覆工を施工した。コンクリートの打設が完了すれば、膨張を抑えられると考えられていたからである。しかし実際は施工後も変状が食い止らずセントル台梁の折損やコンクリートのひび割れが続いた。危険なため防護支保工を施工し、新たな施工部ではコンクリート硬化中地山膨張の影響を受けないよう余掘りを0.50mとり粗朶を詰め、木製だったセントルを鋼製に変更した。しかし被害を減少させることはできず、この時施工した区間は後日改修を要した。改修は1942(昭和17)年12月3日に着手。断面に抱を加え、コンクリートを場所打ちからブロックに変更した。既設覆工をダイナマイトで破壊して取り除いてみると余掘りの粗朶は完全に押しつぶされていたが、埋め殺しの押木・担・桁の一部は破壊を免れていた。覆工の再施工は初期施工時と同じく3.6mごとに施工し、コンクリートブロック積みとした。この変更はコンクリートの打設後、硬化前に土圧が作用してしまうと考えられたからである。コンクリートブロック施工後も強土圧による影響は見受けられたが、セントル取り外し後はわずかに亀裂が見つかったに過ぎなかった。なお横坑と本坑の取り付き点付近は変状が多かったがトロを通さねばならず難航した。
次に1941(昭和16)年4月6日幌毛志方坑口近くで横坑の掘削に着手し、5月6日に本坑幌毛志方から106m地点に取り付き再び本坑の掘削に入った。本坑は完全に土圧で押しつぶされており、横坑も次第に圧縮されたため同年10月・翌年3月・翌々年10月には縫い返しを行った。横坑の完成後、本坑幌毛志方坑口からは1942(昭和17)年12月5日、横坑側からは21日の着工で、放棄されてから1年9箇月ぶりに本坑の掘削に入った。3.6m進捗するごとに切り拡げを行い、場所打ちコンクリートで覆工を施工した。コンクリートの打設が完了すれば、膨張を抑えられると考えられていたからである。しかし実際は施工後も変状が食い止らずセントル台梁の折損やコンクリートのひび割れが続いた。危険なため防護支保工を施工し、新たな施工部ではコンクリート硬化中地山膨張の影響を受けないよう余掘りを0.50mとり粗朶を詰め、木製だったセントルを鋼製に変更した。しかし被害を減少させることはできず、この時施工した区間は後日改修を要した。改修は1942(昭和17)年12月3日に着手。断面に抱を加え、コンクリートを場所打ちからブロックに変更した。既設覆工をダイナマイトで破壊して取り除いてみると余掘りの粗朶は完全に押しつぶされていたが、埋め殺しの押木・担・桁の一部は破壊を免れていた。覆工の再施工は初期施工時と同じく3.6mごとに施工し、コンクリートブロック積みとした。この変更はコンクリートの打設後、硬化前に土圧が作用してしまうと考えられたからである。コンクリートブロック施工後も強土圧による影響は見受けられたが、セントル取り外し後はわずかに亀裂が見つかったに過ぎなかった。なお横坑と本坑の取り付き点付近は変状が多かったがトロを通さねばならず難航した。

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