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1 バイト追加 、 2019年6月29日 (土)
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次に1941(昭和16)年4月6日幌毛志方坑口近くで横坑の掘削に着手し、5月6日に本坑幌毛志方から106m地点に取り付き再び本坑の掘削に入った。本坑は完全に土圧で押しつぶされており、横坑も次第に圧縮されたため同年10月・翌年3月・翌々年10月には縫い返しを行った。横坑の完成後、本坑幌毛志方坑口からは1942(昭和17)年12月5日、横坑側からは21日の着工で、放棄されてから1年9箇月ぶりに本坑の掘削に入った。3.6m進捗するごとに切り拡げを行い、場所打ちコンクリートで覆工を施工した。コンクリートの打設が完了すれば、膨張を抑えられると考えられていたからである。しかし実際は施工後も変状が食い止らずセントル台梁の折損やコンクリートのひび割れが続いた。危険なため防護支保工を施工し、新たな施工部ではコンクリート硬化中地山膨張の影響を受けないよう余掘りを0.50mとり粗朶を詰め、木製だったセントルを鋼製に変更した。しかし被害を減少させることはできず、この時施工した区間は後日改修を要した。改修は1942(昭和17)年12月3日に着手。断面に抱を加え、コンクリートを場所打ちからブロックに変更した。既設覆工をダイナマイトで破壊して取り除いてみると余掘りの粗朶は完全に押しつぶされていたが、埋め殺しの押木・担・桁の一部は破壊を免れていた。覆工の再施工は初期施工時と同じく3.6mごとに施工し、コンクリートブロック積みとした。この変更はコンクリートの打設後、硬化前に土圧が作用してしまうと考えられたからである。コンクリートブロック施工後も強土圧による影響は見受けられたが、セントル取り外し後はわずかに亀裂が見つかったに過ぎなかった。なお横坑と本坑の取り付き点付近は変状が多かったがトロを通さねばならず難航した。
次に1941(昭和16)年4月6日幌毛志方坑口近くで横坑の掘削に着手し、5月6日に本坑幌毛志方から106m地点に取り付き再び本坑の掘削に入った。本坑は完全に土圧で押しつぶされており、横坑も次第に圧縮されたため同年10月・翌年3月・翌々年10月には縫い返しを行った。横坑の完成後、本坑幌毛志方坑口からは1942(昭和17)年12月5日、横坑側からは21日の着工で、放棄されてから1年9箇月ぶりに本坑の掘削に入った。3.6m進捗するごとに切り拡げを行い、場所打ちコンクリートで覆工を施工した。コンクリートの打設が完了すれば、膨張を抑えられると考えられていたからである。しかし実際は施工後も変状が食い止らずセントル台梁の折損やコンクリートのひび割れが続いた。危険なため防護支保工を施工し、新たな施工部ではコンクリート硬化中地山膨張の影響を受けないよう余掘りを0.50mとり粗朶を詰め、木製だったセントルを鋼製に変更した。しかし被害を減少させることはできず、この時施工した区間は後日改修を要した。改修は1942(昭和17)年12月3日に着手。断面に抱を加え、コンクリートを場所打ちからブロックに変更した。既設覆工をダイナマイトで破壊して取り除いてみると余掘りの粗朶は完全に押しつぶされていたが、埋め殺しの押木・担・桁の一部は破壊を免れていた。覆工の再施工は初期施工時と同じく3.6mごとに施工し、コンクリートブロック積みとした。この変更はコンクリートの打設後、硬化前に土圧が作用してしまうと考えられたからである。コンクリートブロック施工後も強土圧による影響は見受けられたが、セントル取り外し後はわずかに亀裂が見つかったに過ぎなかった。なお横坑と本坑の取り付き点付近は変状が多かったがトロを通さねばならず難航した。
=== 富内方坑口の着工 ===
=== 富内方坑口の着工 ===
幌毛志方坑口が地すべり地形で坑口を延長したが、富内方も軟弱地盤のため40m延長し1942(昭和17)年4月1日着工、6月トンネル掘削に着手した。幌毛志方と同じく余掘りに粗朶を詰め込みコンクリートブロックで覆工を施工した。富内方も相変わらず強土圧で、さらには8月に豪雨に見舞われた際には変圧により激しい変状をきたし改修をした。この豪雨で坑口周辺の切土部も緩んだため対策を施しトンネルの坑口を2度に渡り(4.7m+9.3m=14.0m)延長した。10月に入りようやく掘進が再開されたが今度は湧水が甚だしい粘土質の地質となりまた強大な変圧もかかりわずか84.0mの施工に実に1年8箇月を要した。
幌毛志方坑口が地すべり地形で坑口を延長したが、富内方も軟弱地盤のため40m延長し1942(昭和17)年4月1日着工、6月トンネル掘削に着手した。幌毛志方と同じく余掘りに粗朶を詰め込みコンクリートブロックで覆工を施工した。富内方も相変わらず強土圧で、さらには8月に豪雨に見舞われた際には偏圧により激しい変状をきたし改修をした。この豪雨で坑口周辺の切土部も緩んだため対策を施しトンネルの坑口を2度に渡り(4.7m+9.3m=14.0m)延長した。10月に入りようやく掘進が再開されたが今度は湧水が甚だしい粘土質の地質となりまた強大な偏圧もかかりわずか84.0mの施工に実に1年8箇月を要した。
 
=== 横坑から坑奥への掘進 ===
=== 横坑から坑奥への掘進 ===
1943(昭和18)年4月から12月にかけて施工された区間は工法・方法の研究に注力された区間である。数mごと、長いところでも20mごとにやり方が変わり、断面は完全な円形になり、覆工厚は0.95mにまで達した。今まで土圧が覆工に与える影響を抑えるため余掘りを大きくとっていたが、この方法を廃し余掘りを0.2m程度にし隙間に砂利を充填したところ毛細亀裂が1本現れただけで覆工の破壊は無かった。しかしこの区間は亀裂変状が激しくなったため1943(昭和18)年11月 - 翌年1月にかけて改修を行い巻き厚は最大1.20m、レールと鉄筋を入れ強固なものとした。続いての区間は今までの方法を一新し、コンクリート覆工は場所打ちとした。ここに当トンネルの施工方法は一応の完成を見た。富内方坑口は鉄道工業株式会社と川口組の請負工事であったが後に早期完成を目指し直轄工事となった。
1943(昭和18)年4月から12月にかけて施工された区間は工法・方法の研究に注力された区間である。数mごと、長いところでも20mごとにやり方が変わり、断面は完全な円形になり、覆工厚は0.95mにまで達した。今まで土圧が覆工に与える影響を抑えるため余掘りを大きくとっていたが、この方法を廃し余掘りを0.2m程度にし隙間に砂利を充填したところ毛細亀裂が1本現れただけで覆工の破壊は無かった。しかしこの区間は亀裂変状が激しくなったため1943(昭和18)年11月 - 翌年1月にかけて改修を行い巻き厚は最大1.20m、レールと鉄筋を入れ強固なものとした。続いての区間は今までの方法を一新し、コンクリート覆工は場所打ちとした。ここに当トンネルの施工方法は一応の完成を見た。富内方坑口は鉄道工業株式会社と川口組の請負工事であったが後に早期完成を目指し直轄工事となった。

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