「能津登」の版間の差分

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北海道の日本海沿岸では古くからニシン漁が盛んで、場所請負人や運上屋の間は主に海路によってつながっていたが、時化によって途絶した際のために陸路が欲されていた。『島牧村史』によれば1799(寛政11)年、当トンネルのある尻別川河口から寿都以西に道が開削されたことが記されている。1874(明治7)年寿都・歌棄・磯谷に郵便取扱所が置かれたが悪天候が続くと途絶してしまったといわれ、道路としての機能は当時まだまだ不十分であったことがうかがえる。寿都には郡役所があり道路の需要があったのであろう、1882(明治15)年に寿都 - 磯谷間、つまりこのトンネルのある区間が開通した。当時はまだトンネルはなかったがその後能津登トンネルが誕生した。資料により開削年が前後するが遅くとも1911(明治44)年にはすでに開通していたと思われる。当初はすべて素掘りであったが、のちに坑口付近のみ巻き立てが行われた。現況調書を頼るとこの改修が行われたのは1963(昭和38)年11月のことか。2代目が開通してからも通行できる状態であったらしくしばらく地形図にその姿を見せていた。
北海道の日本海沿岸では古くからニシン漁が盛んで、場所請負人や運上屋の間は主に海路によってつながっていたが、時化によって途絶した際のために陸路が欲されていた。『島牧村史』によれば1799(寛政11)年、当トンネルのある尻別川河口から寿都以西に道が開削されたことが記されている。1874(明治7)年寿都・歌棄・磯谷に郵便取扱所が置かれたが悪天候が続くと途絶してしまったといわれ、道路としての機能は当時まだまだ不十分であったことがうかがえる。寿都には郡役所があり道路の需要があったのであろう、1882(明治15)年に寿都 - 磯谷間、つまりこのトンネルのある区間が開通した。当時はまだトンネルはなかったがその後能津登トンネルが誕生した。資料により開削年が前後するが遅くとも1911(明治44)年にはすでに開通していたと思われる。当初はすべて素掘りであったが、のちに坑口付近のみ巻き立てが行われた。現況調書を頼るとこの改修が行われたのは1963(昭和38)年11月のことか。2代目が開通してからも通行できる状態であったらしくしばらく地形図にその姿を見せていた。2代目の拡幅工事が開始された際には、通行不可を避けるため一時的に迂回路として再開通された経緯がある。
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