「梅川」の版間の差分

69 バイト除去 、 2020年10月20日 (火)
路線の誤り
(typo)
(路線の誤り)
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'''梅川トンネル'''は積丹半島の東の付け根にあるトンネル。余市町内の梅川町と白岩町の間にそびえる'''出足平峠'''を抜ける。古く積丹半島の交通のほとんどは海上交通に頼っており、陸上交通は波の穏やかな時に海食崖の下のわずかな海岸を使いようやく徒歩の通行が可能になっている程度で、出足平峠付近の海岸ではがあまりにも急峻なためそれもかなわなかった。1845(弘化2)年、余市場所の支配人2代目林長左衛門が余市から現在の豊浜町に達する山道を切り開いた。これが出足平峠の原型である。また1855(安政2)年には古平運上屋の岡田半兵衛は現在の沖町から余市に向かい新道を開削し、明治18(1885)年には補修が行われている。しかしこの道も仮分け道であり道路の役割を果たすにはまだまだ不十分なものであった。1907(明治40)年5月31日、北海道庁告示第275号により仮定県道西海岸線の一部に定められ1908(明治41)年11月に道路は完成した。当時まだ出足平峠にトンネルはなかった。この道は1920(大正9)年4月1日準地方費道29号入舸岩内線に、1938(昭和13)年9月28日地方費道50号入舸余市線となった。
'''梅川トンネル'''は積丹半島の東の付け根にあるトンネル。余市町内の梅川町と白岩町の間にそびえる'''出足平峠'''を抜ける。古く積丹半島の交通のほとんどは海上交通に頼っており、陸上交通は波の穏やかな時に海食崖の下のわずかな海岸を使いようやく徒歩の通行が可能になっている程度で、出足平峠付近の海岸ではがあまりにも急峻なためそれもかなわなかった。1845(弘化2)年、余市場所の支配人2代目林長左衛門が余市から現在の豊浜町に達する山道を切り開いた。これが出足平峠の原型である。また1855(安政2)年には古平運上屋の岡田半兵衛は現在の沖町から余市に向かい新道を開削し、明治18(1885)年には補修が行われている。しかしこの道も仮分け道であり道路の役割を果たすにはまだまだ不十分なものであった。1907(明治40)年5月31日、北海道庁告示第275号により仮定県道西海岸線の一部に定められ1908(明治41)年11月に道路は完成した。当時まだ出足平峠にトンネルはなかった。この道は1938(昭和13)年9月28日地方費道50号入舸余市線となった。


== 1代目 ==
== 1代目 ==