軽川

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がるがわ
軽川

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基礎情報
振興局 後志総合振興局
図名
20万 5万 2.5万
岩内 倶知安 倶知安
用途 鉄道
路線名 京極軽便線(-1922)
京極線(1922-1944)
胆振線(1944-)
施工者 橋本店(請負)
相良組(施工)
工事費 13万7523円4銭4厘
着工 1917(大正6)年8月
竣工 1919(大正8)年9月
開通 1919(大正8)年11月15日
閉鎖 1986(昭和61)年11月1日
現況 Co塗固
(ドアにて出入可能)
延長 1,349.9ft
覆工 Co


軽川トンネルは胆振線京極駅 - 北岡駅間にあったトンネル。

胆振線のうち本トンネルの属する京極駅 - 倶知安駅間は1919(大正8)年11月15日 に京極軽便線として開業した、胆振線で最も歴史ある区間である。敷設工事は全体を1工区として行われ、1917(大正6)年8月着手、1919(大正8)年9月竣工、同年11月15日開通である。京極軽便線の沿線は平坦地が多く工事は概して容易に進んだが唯一軽川周辺は尻別川の蛇行と丘陵に挟まれ大規模な土木工事を要した。平々内川橋梁、軽川橋梁、築堤、護岸などがあったが本トンネルもその土工の一つである。地質は火山灰・砂岩・粘土で構成され、崩落や湧水が多く、挙句土圧が激増し支保工の補強に手を割かれることとなった。1918(大正7)年2月には融雪水により大規模に崩落し、トンネル上の地表に巨大な陥没が現れた。また京極軽便線はタコ部屋労働も行われ、上記の難工事もあり複数の死者があった。『京極町史』には「後年トンネル近くの畑で人骨が出た」とか「尻別川に人夫の遺体が流れてきた」といった噂話が収められている。

京極軽便線は京極線、後胆振線になり1986(昭和61)年11月1日に廃線となった。本トンネルはコンクリートで坑口が塞がれたが、扉が取り付けられ人の出入りが可能な状態で(ただし施錠はされている)、鉄道・運輸機構が売却をしていた。