渡島中山峠
中山峠(同名の峠があるため渡島中山峠とも呼ばれる)は函館と道南江差を結ぶ国道227号のほぼ中間にあたる北斗市と厚沢部町の境界にある峠である。2世代のトンネルがあり、さらに新トンネルが建設中である。
山道時代
中山峠の初めての道は6代目鈴鹿甚右衛門によって開かれた。鈴鹿家は江差に続く商家で代々甚右衛門を襲名しその6代目が山道を開削した。6代目甚右衛門は他にも長坂庄兵衛と組み太田山道・狩場山道を開削している。この2山道の開削ののち1858(安政5)年に半年間の工事を経てここ中山峠に山道を築き上げた。山道時代の中山峠は地名をとって厚沢部越・芦沢部越・大野越・鶉山道または開削者の名前から鈴鹿山道などと呼ばれた。山道は函館 - 江差を結ぶ重要な道であったから大小の改修を重ね冬季にも使われ続けた。
1代目
なかやま
中山
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山道の峠は勾配が急であったため乗合馬車や自動車は一旦客を下車させて峠を越えていた。この状況を打開しようと距離を伸ばして勾配を緩やかにせしめようとするのは誰もが思うごく自然なアイディアであった。しかし当時の厚沢部村村長佐野勇松は赴任当初から山道の改修に関心を示し、トンネル化を強く推した人物であった。はじめは話を聞く誰もが夢物語と一蹴するこの構想も、わずか3か年の佐野の在任期間中には有力な案となり、1923(大正12)年5月にはついに起工にこぎつけた。佐野は1924(大正13)年4月乙部へ転任したため完成を見ることはなかったが、トンネルは同年6月に竣工した。
2代目
なかやま
中山
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1代目のトンネル開通によって最大の難所は改善されたがそれ以降も中山峠は依然として険路であることに変わりはなかった。特に第2次世界大戦中は最低限の補修さえままならずむしろ危険が増していたため、中山峠は国道に昇格され1958(昭和33)年より改修に着手した。トンネルは1962(昭和37)年12月着工、1966(昭和41)年3月竣工。
3代目
しんなかやま
新中山(仮称)
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2代目トンネルが老朽化し、また防災の面からも必要が生じ3代目が計画された。2013(平成25)年に渡島中山防災事業として事業化。トンネルとその前後1.4kmを整備する。