「能津登」の版間の差分
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== 1代目 == | == 1代目 == | ||
{{基礎情報 | {{基礎情報 | ||
|よみ | |よみ = のつと | ||
|名称 | |名称 = 能津登 | ||
|画像 | |画像 = 20150914101300DSC_0651.JPG | ||
|画像説明 | |画像説明 = 蘭越方坑口 | ||
|振興局 | |地図 = | ||
| | |振興局 = 後志総合振興局 | ||
|20万図名 | |起点 = 磯谷郡蘭越町港町<BR>42.876699, 140.359574 | ||
|5万図名 | |終点 = 寿都郡寿都町磯谷町能津登<BR>42.876235, 140.358871 | ||
|2.5万図名 = 島古丹 | |20万図名 = 岩内 | ||
|用途 | |5万図名 = 島古丹 | ||
|路線名 | |2.5万図名 = 島古丹 | ||
|管理者 | |用途 = 道路 | ||
|施工者 | |路線名 = 仮定県道西海岸線(-1920)<BR>準地方費道18号江差岩内線(1920-1954)<BR>2級国道229号小樽江差線(1953-1965)<BR>一般国道229号(1965-) | ||
|設計者 | |管理者 = | ||
|工事費 | |施工者 = | ||
|着工 | |設計者 = | ||
|竣工 | |工事費 = 不明 | ||
|開通 | |着工 = | ||
|閉鎖 | |竣工 = 1910(明治43)年11月 | ||
|現況 | |開通 = 1908(明治41)年 | ||
| | |閉鎖 = | ||
|総幅員 | |現況 = 廃止・Co塗固 | ||
| | |延長 = 49.00m | ||
|坑門型式 | |総幅員 = 5.0m | ||
|掘削工法 | |車道幅員 = 3.6m | ||
|覆工 | |軌間・軌道数 = | ||
|舗装 | |中央高 = 4.50m | ||
|照明 | |建築限界高 = | ||
| | |有効高 = 3.30m | ||
| | |電化/非電化 = | ||
|坑門型式 = | |||
|掘削工法 = | |||
|覆工 = 素掘り一部Co | |||
|舗装 = 未舗装 | |||
|照明 = | |||
|換気 = | |||
|排水 = | |||
|トンネル等級 = | |||
|非常用設備 = | |||
|注釈 = | |||
}} | }} | ||
北海道の日本海沿岸では古くからニシン漁が盛んで、場所請負人や運上屋の間は主に海路によってつながっていたが、時化によって途絶した際のために陸路が欲されていた。『島牧村史』によれば1799(寛政11)年、当トンネルのある尻別川河口から寿都以西に道が開削されたことが記されている。1874(明治7)年寿都・歌棄・磯谷に郵便取扱所が置かれたが悪天候が続くと途絶してしまったといわれ、道路としての機能は当時まだまだ不十分であったことがうかがえる。寿都には郡役所があり道路の需要があったのであろう、1882(明治15)年に寿都 - 磯谷間、つまりこのトンネルのある区間が開通した。当時はまだトンネルはなかったがその後能津登トンネルが誕生した。資料により開削年が前後するが遅くとも1911(明治44)年にはすでに開通していたと思われる。当初はすべて素掘りであったが、のちに坑口付近のみ巻き立てが行われた。現況調書を頼るとこの改修が行われたのは1963(昭和38)年11月のことか。2代目が開通してからも通行できる状態であったらしくしばらく地形図にその姿を見せていた。 | 北海道の日本海沿岸では古くからニシン漁が盛んで、場所請負人や運上屋の間は主に海路によってつながっていたが、時化によって途絶した際のために陸路が欲されていた。『島牧村史』によれば1799(寛政11)年、当トンネルのある尻別川河口から寿都以西に道が開削されたことが記されている。1874(明治7)年寿都・歌棄・磯谷に郵便取扱所が置かれたが悪天候が続くと途絶してしまったといわれ、道路としての機能は当時まだまだ不十分であったことがうかがえる。寿都には郡役所があり道路の需要があったのであろう、1882(明治15)年に寿都 - 磯谷間、つまりこのトンネルのある区間が開通した。当時はまだトンネルはなかったがその後能津登トンネルが誕生した。資料により開削年が前後するが遅くとも1911(明治44)年にはすでに開通していたと思われる。当初はすべて素掘りであったが、のちに坑口付近のみ巻き立てが行われた。現況調書を頼るとこの改修が行われたのは1963(昭和38)年11月のことか。2代目が開通してからも通行できる状態であったらしくしばらく地形図にその姿を見せていた。 | ||
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== 2代目 == | == 2代目 == | ||
{{基礎情報 | {{基礎情報 | ||
|よみ | |よみ = のつと | ||
|名称 | |名称 = 能津登 | ||
|画像 | |画像 = | ||
|画像説明 | |画像説明 = | ||
|振興局 | |地図 = | ||
| | |振興局 = 後志総合振興局 | ||
|20万図名 | |起点 = 磯谷郡蘭越町港町<BR>42.876035, 140.363163 | ||
|5万図名 | |終点 = 寿都郡寿都町磯谷町能津登<BR>42.873185, 140.359268 | ||
|2.5万図名 = 島古丹 | |20万図名 = 岩内 | ||
|用途 | |5万図名 = 島古丹 | ||
|路線名 | |2.5万図名 = 島古丹 | ||
|管理者 | |用途 = 道路 | ||
|施工者 | |路線名 = 一般国道229号 | ||
|設計者 | |管理者 = | ||
|工事費 | |施工者 = | ||
|着工 | |設計者 = | ||
|竣工 | |工事費 = 1億3500万円 | ||
|開通 | |着工 = 1966(昭和41)年5月 | ||
|閉鎖 | |竣工 = 1968(昭和43)年11月 | ||
|現況 | |開通 = | ||
| | |閉鎖 = | ||
|総幅員 | |現況 = 改修して3代目へ | ||
| | |延長 = 450.0m | ||
|坑門型式 | |総幅員 = 6.00m | ||
|掘削工法 | |車道幅員 = 5.50m | ||
|覆工 | |軌間・軌道数 = | ||
|舗装 | |中央高 = 5.04m | ||
|照明 | |建築限界高 = 4.50m | ||
| | |有効高 = | ||
| | |電化/非電化 = | ||
|坑門型式 = 面壁 | |||
|掘削工法 = | |||
|覆工 = Co | |||
|舗装 = Co | |||
|照明 = ナトリウム×71 | |||
|換気 = 自然 | |||
|排水 = サイドドレーン | |||
|トンネル等級 = D | |||
|非常用設備 = 無し | |||
|注釈 = | |||
}} | }} | ||
時代が昭和に入ると新時代の道路が要望されたが間もなく日本は戦争へと突き進み次の時代へと持ち越しとなった。戦後になると当トンネルの北に位置する雷電越を海岸道路に付け替える大工事に力がそそがれまたも能津登は取り残されてしまった。雷電の海岸道路が開通したのは1963(昭和38)年で、ここからようやく能津登に手が付けられたのだった。当時の現役国道としては甚だ時代遅れな素掘り隧道であった能津登トンネルは、1968(昭和43)年11月2代目が竣工し付け替えられた | 時代が昭和に入ると新時代の道路が要望されたが間もなく日本は戦争へと突き進み次の時代へと持ち越しとなった。戦後になると当トンネルの北に位置する雷電越を海岸道路に付け替える大工事に力がそそがれまたも能津登は取り残されてしまった。雷電の海岸道路が開通したのは1963(昭和38)年で、ここからようやく能津登に手が付けられたのだった。当時の現役国道としては甚だ時代遅れな素掘り隧道であった能津登トンネルは、1968(昭和43)年11月2代目が竣工し付け替えられた | ||
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== 3代目 == | == 3代目 == | ||
{{基礎情報 | {{基礎情報 | ||
|よみ | |よみ = のつと | ||
|名称 | |名称 = 能津登 | ||
|画像 | |画像 = 20150914103120DSC_0666.JPG | ||
|画像説明 | |画像説明 = 寿都方坑口、左は旧道 | ||
|振興局 | |地図 = | ||
| | |振興局 = 後志総合振興局 | ||
|20万図名 | |起点 = 磯谷郡蘭越町港町<BR>42.876035, 140.363163 | ||
|5万図名 | |終点 = 寿都郡寿都町磯谷町能津登<BR>42.873185, 140.359268 | ||
|2.5万図名 = 島古丹 | |20万図名 = 岩内 | ||
|用途 | |5万図名 = 島古丹 | ||
|路線名 | |2.5万図名 = 島古丹 | ||
|管理者 | |用途 = 道路 | ||
|施工者 | |路線名 = 一般国道229号 | ||
|設計者 | |管理者 = | ||
|工事費 | |施工者 = 草別・星・協成・経常建設共同企業体 | ||
|着工 | |設計者 = | ||
|竣工 | |工事費 = | ||
|開通 | |着工 = 1992(平成4)年 | ||
|閉鎖 | |竣工 = 1994(平成6)年11月 | ||
|現況 | |開通 = | ||
| | |閉鎖 = | ||
|総幅員 | |現況 = 現役 | ||
|高さ | |延長 = 481m | ||
|坑門型式 | |総幅員 = 8.25m | ||
|掘削工法 | |車道幅員 = 6.5m | ||
|覆工 | |軌間・軌道数 = | ||
|舗装 | |中央高 = | ||
|照明 | |建築限界高 = 4.5m | ||
| | |有効高 = | ||
| | |電化/非電化 = | ||
|高さ = 4.7m | |||
|坑門型式 = | |||
|掘削工法 = NATM | |||
|覆工 = Co | |||
|舗装 = Co | |||
|照明 = ナトリウム×150 | |||
|換気 = | |||
|排水 = | |||
|トンネル等級 = D | |||
|非常用設備 = 無し | |||
|注釈 = | |||
}} | }} | ||
2代目は歩道がなく車道幅員もわずか5.5mと狭隘であったため2代目を拡幅し3代目の能津登トンネルが誕生した。 | 2代目は歩道がなく車道幅員もわずか5.5mと狭隘であったため2代目を拡幅し3代目の能津登トンネルが誕生した。 |
2020年10月19日 (月) 19:44時点における版
能津登トンネルは国道229号の蘭越町と寿都町の境界、尻別岬を貫くトンネルである。
1代目
のつと
能津登
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北海道の日本海沿岸では古くからニシン漁が盛んで、場所請負人や運上屋の間は主に海路によってつながっていたが、時化によって途絶した際のために陸路が欲されていた。『島牧村史』によれば1799(寛政11)年、当トンネルのある尻別川河口から寿都以西に道が開削されたことが記されている。1874(明治7)年寿都・歌棄・磯谷に郵便取扱所が置かれたが悪天候が続くと途絶してしまったといわれ、道路としての機能は当時まだまだ不十分であったことがうかがえる。寿都には郡役所があり道路の需要があったのであろう、1882(明治15)年に寿都 - 磯谷間、つまりこのトンネルのある区間が開通した。当時はまだトンネルはなかったがその後能津登トンネルが誕生した。資料により開削年が前後するが遅くとも1911(明治44)年にはすでに開通していたと思われる。当初はすべて素掘りであったが、のちに坑口付近のみ巻き立てが行われた。現況調書を頼るとこの改修が行われたのは1963(昭和38)年11月のことか。2代目が開通してからも通行できる状態であったらしくしばらく地形図にその姿を見せていた。
2代目
のつと
能津登
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時代が昭和に入ると新時代の道路が要望されたが間もなく日本は戦争へと突き進み次の時代へと持ち越しとなった。戦後になると当トンネルの北に位置する雷電越を海岸道路に付け替える大工事に力がそそがれまたも能津登は取り残されてしまった。雷電の海岸道路が開通したのは1963(昭和38)年で、ここからようやく能津登に手が付けられたのだった。当時の現役国道としては甚だ時代遅れな素掘り隧道であった能津登トンネルは、1968(昭和43)年11月2代目が竣工し付け替えられた
3代目
のつと
能津登
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2代目は歩道がなく車道幅員もわずか5.5mと狭隘であったため2代目を拡幅し3代目の能津登トンネルが誕生した。