「熊牛」の版間の差分
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北海道拓殖鉄道は当初から世界恐慌、入植者の不振等が重なり業績は芳しくなかった。戦中は軍需木材の輸送、戦後は地方鉄道補助法等の助成で食いつないだが、輸送量増量の見込みがない東瓜幕駅 - 上士幌駅間を1949(昭和24)年9月1日に廃止して建て直しを図った。一時期は黒字をみることができたが1955(昭和30)年に補助金打ちきり、1959(昭和34)年ストライキ、同年本社屋焼失、1962(昭和37)年台風直撃と不運が続き、さらには自動車輸送の台頭と施設老朽化もあって事業縮小を余儀なくされた。1965(昭和40)年12月20日瓜幕駅 - 東瓜幕駅間(6.7km)を休止、1967(昭和42)年9月30日にそのまま廃止。本トンネルは変状が著しく札幌陸運局から緊急整備改善の勧告があったがもちろんそのような資金があるはずもなかったため、トンネル含む瓜幕駅 - 屈足駅間(18.2km)を1968(昭和43)年3月10日に休止とした。残る新得駅 - 屈足駅は辛うじて1日1往復の旅客輸送を続けたが、これも同年7月10日から休止、7月12日に運輸審議会で廃止が認められ10月に至り机上で全線廃止した。7月31日にはさよなら列車が新得駅 - 鹿追駅間を走り本トンネル最後の列車通行となった。結局のところ経営不振が続いた鉄道に本トンネル老朽化がとどめをさした終幕であった。 | 北海道拓殖鉄道は当初から世界恐慌、入植者の不振等が重なり業績は芳しくなかった。戦中は軍需木材の輸送、戦後は地方鉄道補助法等の助成で食いつないだが、輸送量増量の見込みがない東瓜幕駅 - 上士幌駅間を1949(昭和24)年9月1日に廃止して建て直しを図った。一時期は黒字をみることができたが1955(昭和30)年に補助金打ちきり、1959(昭和34)年ストライキ、同年本社屋焼失、1962(昭和37)年台風直撃と不運が続き、さらには自動車輸送の台頭と施設老朽化もあって事業縮小を余儀なくされた。1965(昭和40)年12月20日瓜幕駅 - 東瓜幕駅間(6.7km)を休止、1967(昭和42)年9月30日にそのまま廃止。本トンネルは変状が著しく札幌陸運局から緊急整備改善の勧告があったがもちろんそのような資金があるはずもなかったため、トンネル含む瓜幕駅 - 屈足駅間(18.2km)を1968(昭和43)年3月10日に休止とした。残る新得駅 - 屈足駅は辛うじて1日1往復の旅客輸送を続けたが、これも同年7月10日から休止、7月12日に運輸審議会で廃止が認められ10月に至り机上で全線廃止した。7月31日にはさよなら列車が新得駅 - 鹿追駅間を走り本トンネル最後の列車通行となった。結局のところ経営不振が続いた鉄道に本トンネル老朽化がとどめをさした終幕であった。 | ||
1983(昭和58)年時点で東側(新幌内駅方)坑口は開口していたが内部は崩落し近々坑口を閉塞させる予定であったという。2024(令和6)年現在西側(熊牛駅方)は土砂に埋没し閉塞寸前で、坑内は数十m先で崩落・完全に閉塞していた。また東側の切土は完全に埋め戻され坑口跡は完全に埋没していた。 | |||
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ファイル:20240223094330DSC 0043.jpg|西側坑口から見た坑内。暗くて見ずらいが奥で崩落している。 | |||
ファイル:20240223094404DSC 0044.jpg|西側坑口前の線路跡は自然に帰っている。 | |||
ファイル:20240223104626DSC 0059.jpg|東側坑口前は切土されていたが埋め戻され線路の痕跡はない。 | |||
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2024年4月23日 (火) 21:41時点における最新版
くまうし
熊牛
北海道 トンネルwiki ID:824695 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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熊牛トンネルは清水町北部にあった北海道拓殖鉄道線のトンネルである。
北海道拓殖鉄道線は根室本線新得駅から網走本線(のちに池北線)足寄駅までを結んで十勝平野北部及び大雪山系南麓地域の開発を目指した鉄道路線である。1928(昭和3)年12月15日第1期として新得駅 - 鹿追駅間の21.0km、第2期は1929(昭和4)年11月26日鹿追駅 - 中音更駅間23.7km、第3期は1931(昭和6)年11月15日中音更駅 - 上士幌駅間9.6kmがそれぞれ開業した。残る上士幌駅 - 足寄駅間は用地取得及び測量が済んでいたが資金調達にめどが立たず建設はついに実現されることはなかった。
本トンネルは第1期の開業区間に含まれ、1932(昭和7)年東側に新幌内駅が、1960(昭和35)年西側に熊牛駅が開業したため、熊牛駅 - 新幌内駅間にあったということになる。熊牛駅は美蔓台地の麓に、新幌内駅は台地上に位置し、トンネルは鉄道が台地に上るために勾配を緩和させるよう作られている。開業区間にトンネルは本トンネルが唯一である。建設にはいわゆる「タコ」を酷使したといわれる。開通はもともと9月を予定していたがトンネル東側の切土部が長雨で崩れたため復旧工事で開業が12月にずれ込んでいる。開業後もこの切土部は何度か崩れ、トンネルも同じく崩れやすい粘土質中に掘られたものだった。
冬にはトンネル内にできる巨大なつららにより車両が破損したことがあり、つらら落としが日々行われていた。標高の低い西側(熊牛駅方)坑口で不要な枕木を燃やしてつららを防止したこともあり、燻煙を充満させるために坑口には木製の扉が設けられていた。扉の開閉のため熊牛駅には係員の詰所が設けられた。
北海道拓殖鉄道は当初から世界恐慌、入植者の不振等が重なり業績は芳しくなかった。戦中は軍需木材の輸送、戦後は地方鉄道補助法等の助成で食いつないだが、輸送量増量の見込みがない東瓜幕駅 - 上士幌駅間を1949(昭和24)年9月1日に廃止して建て直しを図った。一時期は黒字をみることができたが1955(昭和30)年に補助金打ちきり、1959(昭和34)年ストライキ、同年本社屋焼失、1962(昭和37)年台風直撃と不運が続き、さらには自動車輸送の台頭と施設老朽化もあって事業縮小を余儀なくされた。1965(昭和40)年12月20日瓜幕駅 - 東瓜幕駅間(6.7km)を休止、1967(昭和42)年9月30日にそのまま廃止。本トンネルは変状が著しく札幌陸運局から緊急整備改善の勧告があったがもちろんそのような資金があるはずもなかったため、トンネル含む瓜幕駅 - 屈足駅間(18.2km)を1968(昭和43)年3月10日に休止とした。残る新得駅 - 屈足駅は辛うじて1日1往復の旅客輸送を続けたが、これも同年7月10日から休止、7月12日に運輸審議会で廃止が認められ10月に至り机上で全線廃止した。7月31日にはさよなら列車が新得駅 - 鹿追駅間を走り本トンネル最後の列車通行となった。結局のところ経営不振が続いた鉄道に本トンネル老朽化がとどめをさした終幕であった。
1983(昭和58)年時点で東側(新幌内駅方)坑口は開口していたが内部は崩落し近々坑口を閉塞させる予定であったという。2024(令和6)年現在西側(熊牛駅方)は土砂に埋没し閉塞寸前で、坑内は数十m先で崩落・完全に閉塞していた。また東側の切土は完全に埋め戻され坑口跡は完全に埋没していた。