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== トンネル誕生前 ==
== トンネル誕生前 ==
元禄年間(1690年代)、ロシアはカムチャッカ半島から千島列島を南下し始め、蝦夷地までも手中に収めようと度々姿を見せていた。幕府も蝦夷地や千島列島といった北方地域の状況を把握しきれていなかったため、1798(寛政10)年ついに調査団を派遣した。当時蝦夷地にほとんど道路は存在せず海岸の波打ち際を危険を冒して進んだが、時化のため足止めを食らった数日の間に調査団の一人だった近藤重蔵は道路開削を思い立ちルベシベツ(広尾町)からビタタヌンケ(広尾町・えりも町境界)の間に簡易ではあったものの’’’ルベシベツ山道’’’を拓いた。これは北海道における道路開削の嚆矢と言われる。
元禄年間(1690年代)、ロシアはカムチャッカ半島から千島列島を南下し始め、蝦夷地までも手中に収めようと度々姿を見せていた。幕府も蝦夷地や千島列島といった北方地域の状況を把握しきれていなかったため、1798(寛政10)年ついに調査団を派遣した。当時蝦夷地にほとんど道路は存在せず海岸の波打ち際を危険を冒して進んだが、時化のため足止めを食らった数日の間に調査団の一人だった近藤重蔵は道路開削を思い立ちルベシベツ(広尾町)からビタタヌンケ(広尾町・えりも町境界)の間に簡易ではあったものの'''ルベシベツ山道'''を拓いた。これは北海道における道路開削の嚆矢と言われる。


この翌年の1799(寛政11)年、幕府は蝦夷地を直轄地とした。同時に不十分だった道路交通を確保すべく大河内政壽が総督、最上徳内が監督となりホロイズミ(えりも町本町) - サルル(えりも町目黒)間に’’’猿留山道’’’を開削した。山道によって海が荒れた時でも陸上交通が確保されたが、苅り分け道程度の険路であり依然として交通の主役は磯伝いか海路の状態が続いた。
この翌年の1799(寛政11)年、幕府は蝦夷地を直轄地とした。同時に不十分だった道路交通を確保すべく大河内政壽が総督、最上徳内が監督となりホロイズミ(えりも町本町) - サルル(えりも町目黒)間に'''猿留山道'''を開削した。山道によって海が荒れた時でも陸上交通が確保されたが、苅り分け道程度の険路であり依然として交通の主役は磯伝いか海路の状態が続いた。


== 1代目 ==
== 1代目 ==
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|用途    = 道路
|用途    = 道路
|路線名  = {{一般国道236号}}(-1975)<BR>{{一般国道336号}}(1975-)
|路線名  = {{一般国道236号}}(-1975)<BR>{{一般国道336号}}(1975-)
|管理者  =
|管理者  = 室蘭開発建設部浦河道路事務所
|施工者  = 岩田建設
|施工者  = 岩田建設
|設計者  = 室蘭開発建設部
|設計者  = 室蘭開発建設部