「第4熊碓」の版間の差分
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== 道路・鉄道1代目 == | == 道路・鉄道1代目 == | ||
{{基礎情報 | {{基礎情報 | ||
|よみ | |よみ = だいよんくまうす | ||
|名称 | |名称 = 第4熊碓 | ||
|画像 | |画像 = 0B011760000000000.jpg | ||
|画像説明 | |画像説明 = 札幌方坑口 | ||
|振興局 | |地図 = | ||
| | |振興局 = 後志総合振興局 | ||
|20万図名 | |起点 = 小樽市築港 | ||
|5万図名 | |終点 = 小樽市築港 | ||
|2.5万図名 = 小樽東部 | |20万図名 = 札幌 | ||
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|路線名 | |2.5万図名 = 小樽東部 | ||
|管理者 | |用途 = 道路<BR>鉄道 | ||
|施工者 | |路線名 = 官営幌内鉄道 | ||
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|開通 | |着工 = 1879(明治12)年 | ||
|閉鎖 | |竣工 = 1879(明治12)年 | ||
|現況 | |開通 = 1880(明治13)年11月28日 | ||
| | |閉鎖 = 1883(明治16)年1月31日 | ||
|総幅員 | |現況 = オープンカット | ||
| | |延長 = 248尺 | ||
|坑門型式 | |総幅員 = | ||
|掘削工法 | |車道幅員 = | ||
|覆工 | |軌間・軌道数 = 1,067mm・単線 | ||
|舗装 | |中央高 = | ||
|照明 | |建築限界高 = | ||
| | |有効高 = | ||
| | |電化/非電化 = 非電化 | ||
|坑門型式 = | |||
|掘削工法 = | |||
|覆工 = | |||
|舗装 = | |||
|照明 = | |||
|換気 = | |||
|排水 = | |||
|トンネル等級 = | |||
|非常用設備 = | |||
|注釈 = | |||
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[[ファイル:0B011750000000000.jpg|thumb|小樽方坑口]] | [[ファイル:0B011750000000000.jpg|thumb|小樽方坑口]] | ||
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== 2代目 == | == 2代目 == | ||
{{基礎情報 | {{基礎情報 | ||
|よみ | |よみ = だいよんくまうす | ||
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|施工者 | |路線名 = 官営幌内鉄道(-1889)<BR>北海道炭礦鉄道幌内線(1889-) | ||
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|開通 | |着工 = 1882(明治15)年9月23日 | ||
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|総幅員 | |現況 = オープンカット | ||
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|排水 = | |||
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|非常用設備 = | |||
|注釈 = | |||
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1代目坑口前の急カーブは半径221尺であり、これは機関車の設計である230尺よりも急である。この箇所を改良するため2代目が計画された。明治15(1882)年8月14日試掘に着手、9月23日掘削に着手した。曲線半径を716尺までゆるめ、256尺の長さを短絡した。 | 1代目坑口前の急カーブは半径221尺であり、これは機関車の設計である230尺よりも急である。この箇所を改良するため2代目が計画された。明治15(1882)年8月14日試掘に着手、9月23日掘削に着手した。曲線半径を716尺までゆるめ、256尺の長さを短絡した。 | ||
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== 3代目 == | == 3代目 == | ||
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|よみ | |よみ = くまうす | ||
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|開通 | |着工 = 1901(明治34)年11月6日 | ||
|閉鎖 | |竣工 = 1902(明治35)年9月15日 | ||
|現況 | |開通 = 1903(明治36)年2月1日 | ||
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|総幅員 | |現況 = 現役 | ||
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|坑門型式 | |総幅員 = | ||
|掘削工法 | |車道幅員 = | ||
|覆工 | |軌間・軌道数 = 1,067mm・単線 | ||
|舗装 | |中央高 = | ||
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| | |電化/非電化 = 電化 | ||
|坑門型式 = | |||
|掘削工法 = | |||
|覆工 = | |||
|舗装 = | |||
|照明 = | |||
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|注釈 = | |||
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1900(明治33)年、「鉄道建設規定」(明治33年逓信省令33号)が成立し、線路の曲線半径は15チェーン以上、建築限界幅は12ft6inと定められたたが、先代のトンネルはこれに違反していたので新たなトンネルを掘削し、半径15チェーン、幅14ft6inとなった。完成は1902(明治35)年であったが、朝里村民と北海道炭礦鉄道の間で土地をめぐる裁判が勃発し供用開始は1903(明治36)年まで遅れることとなった。裁判はこの年の1月に和解が成立している。 | 1900(明治33)年、「鉄道建設規定」(明治33年逓信省令33号)が成立し、線路の曲線半径は15チェーン以上、建築限界幅は12ft6inと定められたたが、先代のトンネルはこれに違反していたので新たなトンネルを掘削し、半径15チェーン、幅14ft6inとなった。完成は1902(明治35)年であったが、朝里村民と北海道炭礦鉄道の間で土地をめぐる裁判が勃発し供用開始は1903(明治36)年まで遅れることとなった。裁判はこの年の1月に和解が成立している。 | ||
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== 4代目 == | == 4代目 == | ||
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|20万図名 | |起点 = 小樽市築港 | ||
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|現況 | |開通 = 1910(明治43)年5月1日 | ||
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|覆工 | |軌間・軌道数 = 1,067mm・単線 | ||
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|舗装 = | |||
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当路線は輸送量が増大し、当トンネルを含む手宮駅-朝里駅間は1910(明治43)年5月1日に複線化した。当トンネルは単線で、3代目と4代目でそれぞれ上下線を分けている。 | 当路線は輸送量が増大し、当トンネルを含む手宮駅-朝里駅間は1910(明治43)年5月1日に複線化した。当トンネルは単線で、3代目と4代目でそれぞれ上下線を分けている。 |
2020年10月21日 (水) 20:16時点における版
第4熊碓トンネル・熊碓トンネルは小樽市の平磯岬にあったトンネル。札幌と小樽を結ぶ要衝に当たり、1869(明治2)年7月8日北海道開拓使の誕生とともに各地で道路計画が浮上したが、札幌と小樽の間は札幌から銭函の間が1873(明治6)年に開通したのみだった。1874(明治7)年には民間の手により徒歩道がひかれ、クロフォード (Joseph Ury Crawford) の指揮の元ようやく小樽まで馬車道が達したのは1879(明治12)年11月である。この時当トンネルができたと考えられる。
道路・鉄道1代目
だいよんくまうす
第4熊碓
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クロフォードが札幌-小樽間の険しい地形に道路を建設したことによりケプロン (Horace Capron) はその上に鉄路を敷くこととした。当トンネル及び第5張碓トンネルを鉄道が通れるよう拡幅した工事は1879(明治12)年中だったとされる。即ち当トンネルが道路専用のトンネルであった期間はきわめてわずかであるか、もしくは道路・鉄道が同時に施工されていたこととなる。
銭函方坑口前は急カーブでありこの改善のためわずか2年2箇月で鉄道としての用途は廃止された。その後しばらくは道路トンネルとして使われたのであろう。北海道新聞小樽版朝刊1952(昭和27)年7月17日付にはこのトンネルについて古老の回想がある。記述には錯誤があるが曲線のトンネルであり途中には6尺四方の窓があったとある。後には浮浪者が住んでいたということである。
後にこのトンネルはオープンカットされ現存しない。
2代目
だいよんくまうす
第4熊碓
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1代目坑口前の急カーブは半径221尺であり、これは機関車の設計である230尺よりも急である。この箇所を改良するため2代目が計画された。明治15(1882)年8月14日試掘に着手、9月23日掘削に着手した。曲線半径を716尺までゆるめ、256尺の長さを短絡した。
3代目
くまうす
熊碓
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1900(明治33)年、「鉄道建設規定」(明治33年逓信省令33号)が成立し、線路の曲線半径は15チェーン以上、建築限界幅は12ft6inと定められたたが、先代のトンネルはこれに違反していたので新たなトンネルを掘削し、半径15チェーン、幅14ft6inとなった。完成は1902(明治35)年であったが、朝里村民と北海道炭礦鉄道の間で土地をめぐる裁判が勃発し供用開始は1903(明治36)年まで遅れることとなった。裁判はこの年の1月に和解が成立している。
4代目
くまうす
熊碓
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当路線は輸送量が増大し、当トンネルを含む手宮駅-朝里駅間は1910(明治43)年5月1日に複線化した。当トンネルは単線で、3代目と4代目でそれぞれ上下線を分けている。