「日振」の版間の差分
Iyokanmorigen (トーク | 投稿記録) (ページの作成:「{{基礎情報 |よみ = ひぶり |名称 = 日振 |画像 = 20190523141900DSC 0026.JPG |画像説明 = 富内側坑口 |振興局 = 胆振総合振…」) |
(相違点なし)
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2019年6月28日 (金) 16:16時点における版
日振トンネルは富内線富内駅(旧称邊富内駅) - 幌毛志駅間にあったトンネル。強烈な土圧により難工事となり多数の強制労働者が亡くなった。隣接した幌毛志トンネルについてもここで述べる。
建設工事
着工まで
当トンネルを含む鉄道は1936(昭和11)年「十勝國御影附近ヨリ日高國右左府ヲ經テ膽振國邊富内ニ至ル鐵道」(鉄道敷設法別表第142号の2)に則り「辺富内線」という名で建設が始まり、鵡川上流地域の開発及び東道・道南地域を結ぶことを目指して作られた。既成の鉄道として鵡川駅 - 富内駅に富内線があったので、これを延長する形で建設が始まった。始め地質は均一であると考えられており、掘り易さは特に鑑みず、単にトンネル区間が最も短くなるようにルートが選定された。土圧も強力であるとは知られていなかったので断面はごく一般的な1号型と呼ばれる単線馬蹄型だった。当初計画では延長979.23m、巻圧は坑口部で0.45m、中間部で0.3m。しかし工事を進めるにつれ断面はインバート付きになり、抱がつき、最後には完全な円形となり、覆工の巻厚は最大1.20mに及ぶこととなる。尚1940(昭和15)年9月堀内組と建設工事の契約を結んでいたが未着工のまま解約し直轄工事へと変更された。
幌毛志方坑口の着工
1941(昭和16)年1月15日幌毛志方坑口から直轄工事で着工し、方押しでの掘削が始まった。坑口付近の地山が地すべり地形で切り取りが困難なため坑口を計画から20m延長し底設導坑を掘り始め、これは3月18日には坑口から80m付近に達していた。しかし土圧が強大で膨張し押し出した地山によって支保工はことごとく破壊され、常に地山を切拡げ支保工を補強する作業に追われ、遂にはこの導坑は押しつぶされ放棄を余儀なくされた。
横坑の着工
次に1941(昭和16)年4月6日幌毛志方坑口近くで横坑の掘削に着手し、5月6日に本坑幌毛志方から106m地点に取り付き再び本坑の掘削に入った。本坑は完全に土圧で押しつぶされており、横坑も次第に圧縮されたため同年10月・翌年3月・翌々年10月には縫い返しを行った。横坑の完成後、本坑幌毛志方坑口からは1942(昭和17)年12月5日、横坑側からは21日の着工で、放棄されてから1年9箇月ぶりに本坑の掘削に入った。3.6m進捗するごとに切り拡げを行い、場所打ちコンクリートで覆工を施工した。コンクリートの打設が完了すれば、膨張を抑えられると考えられていたからである。しかし実際は施工後も変状が食い止らずセントル台梁の折損やコンクリートのひび割れが続いた。危険なため防護支保工を施工し、新たな施工部ではコンクリート硬化中地山膨張の影響を受けないよう余掘りを0.50mとり粗朶を詰め、木製だったセントルを鋼製に変更した。しかし被害を減少させることはできず、この時施工した区間は後日改修を要した。改修は1942(昭和17)年12月3日に着手。断面に抱を加え、コンクリートを場所打ちからブロックに変更した。既設覆工をダイナマイトで破壊して取り除いてみると余掘りの粗朶は完全に押しつぶされていたが、埋め殺しの押木・担・桁の一部は破壊を免れていた。覆工の再施工は初期施工時と同じく3.6mごとに施工し、コンクリートブロック積みとした。この変更はコンクリートの打設後、硬化前に土圧が作用してしまうと考えられたからである。コンクリートブロック施工後も強土圧による影響は見受けられたが、セントル取り外し後はわずかに亀裂が見つかったに過ぎなかった。なお横坑と本坑の取り付き点付近は変状が多かったがトロを通さねばならず難航した。
富内方坑口の着工
幌毛志方坑口が地すべり地形で坑口を延長したが、富内方も軟弱地盤のため40m延長し1942(昭和17)年4月1日着工、6月トンネル掘削に着手した。幌毛志方と同じく余掘りに粗朶を詰め込みコンクリートブロックで覆工を施工した。富内方も相変わらず強土圧で、さらには8月に豪雨に見舞われた際には変圧により激しい変状をきたし改修をした。この豪雨で坑口周辺の切土部も緩んだため対策を施しトンネルの坑口を2度に渡り(4.7m+9.3m=14.0m)延長した。10月に入りようやく掘進が再開されたが今度は湧水が甚だしい粘土質の地質となりまた強大な変圧もかかりわずか84.0mの施工に実に1年8箇月を要した。
横坑から坑奥への掘進
1943(昭和18)年4月から12月にかけて施工された区間は工法・方法の研究に注力された区間である。数mごと、長いところでも20mごとにやり方が変わり、断面は完全な円形になり、覆工厚は0.95mにまで達した。今まで土圧が覆工に与える影響を抑えるため余掘りを大きくとっていたが、この方法を廃し余掘りを0.2m程度にし隙間に砂利を充填したところ毛細亀裂が1本現れただけで覆工の破壊は無かった。しかしこの区間は亀裂変状が激しくなったため1943(昭和18)年11月 - 翌年1月にかけて改修を行い巻き厚は最大1.20m、レールと鉄筋を入れ強固なものとした。続いての区間は今までの方法を一新し、コンクリート覆工は場所打ちとした。ここに当トンネルの施工方法は一応の完成を見た。富内方坑口は鉄道工業株式会社と川口組の請負工事であったが後に早期完成を目指し直轄工事となった。
立坑の着工
第2次世界大戦が長引き辺富内線の完成が要望されていたため、切羽を増やして掘削をより早く進め、また地質を調査し今後の工事計画の材料とすることを目的に立坑が建設された。場所はトンネル中央よりやや富内方寄り(富内方坑口から約400m)の町村道沿い。深さ43.90m、大きさ2.74×1.74m。1942(昭和17)年9月に準備に取り掛かり10月1日より掘削を開始。粘性に富んだ地質で硬く締まって掘削は難航したが翌年2月1日に竣工した。立坑口基底からは本坑両坑口にむかって計100.0mを掘削を開始した。この区間の施工からはインバート完成までが早ければアーチに発生する亀裂が少なくなるという経験則が得られた。立坑の払は立坑の1本のみで自然換気されていたため、坑内外の温度差が無くなる夏には換気がほとんどされず作業員は頭痛に悩ませられ効率は低下した。
斜坑の着工
軍部の要請でトンネル工事が急がされたため富内方に斜坑を設け速成をはかることとなった。1943(昭和18)年7月21日着手し48.7mの斜坑は9月14日に竣工した。取り付き点から幌毛志方に向かい導坑を41.5m掘削したがやはり土圧により変状が著しいのでいったん掘進をやめ切り拡げ及び覆工にかかり、翌年5月までに39mの施工を完了した。しかしその先の導坑が圧縮されていたので再び掘削し覆工を行った。この時インバートを先に施工した。1944(昭和19)年2月以降は富内方方向に逆心も行い富内方との貫通のめどが立つと再び幌毛志方にむけ掘削を行った。
戦争による中止
第2次大戦が進むにつれ従事者は各地の防衛工事へ配置換えされ順次工事を中止していった。各坑口の中止年月日と覆工完成延長は次のとおりである。
- 幌毛志方坑口 - 1945(昭和20)年1月、319m
- 富内方坑口・斜坑 - 1944(昭和19)年11月7日、307.50m
- 立坑 - 1944(昭和19)年4月下旬、100m
終戦後の再開と再びの中止
1946(昭和21)年1月工事が再開された。これまで底設に依っていた導坑を頂設に切り替え、上半を切り拡げたらすぐさまアーチを現場打ちコンクリートで打設し下半の掘削へと移った。この方法は重力を利用したズリの運搬ができないためズリ出しにはベルとコンベアを採用した。しかし工事はG.H.Q.の命令により1948(昭和23)年6月工事はまたも中止させられた。戦後の施工で完成したのは幌毛志方坑口の112.80m間であった。
3度目の再開
辺富内線は新規着工路線に選ばれ3度目の着工を迎えることとなった。残っている区間は2箇所、幌毛志方が171.7m、富内側方が50.73mである。再開に先立った調査で強土圧の原因は今まで考えられていた給水膨張ではなく、地山に包蔵された応力が掘削によって開放されるのが原因であると結論付けられた。また実験などの結果により設計などが決められ、工事は1956(昭和31)年9月 - 1958(昭和33)年6月まで行われ残された区間も施工が完了した。かくして1958(昭和33)年11月15日、辺富内線改め富内線富内駅 - 幌毛志駅 - 振内駅の2駅12.940km間が開業した。
強制労働
幌毛志トンネル
幌毛志トンネルは富内駅 - 幌毛志駅間にあったトンネル。上記日振トンネルの南隣に位置する。