「日振」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
270 バイト追加 、 2019年6月28日 (金)
typo, +cat
(ページの作成:「{{基礎情報 |よみ = ひぶり |名称 = 日振 |画像 = 20190523141900DSC 0026.JPG |画像説明 = 富内側坑口 |振興局 = 胆振総合振…」)
 
(typo, +cat)
52行目: 52行目:
=== 終戦後の再開と再びの中止 ===
=== 終戦後の再開と再びの中止 ===
1946(昭和21)年1月工事が再開された。これまで底設に依っていた導坑を頂設に切り替え、上半を切り拡げたらすぐさまアーチを現場打ちコンクリートで打設し下半の掘削へと移った。この方法は重力を利用したズリの運搬ができないためズリ出しにはベルとコンベアを採用した。しかし工事はG.H.Q.の命令により1948(昭和23)年6月工事はまたも中止させられた。戦後の施工で完成したのは幌毛志方坑口の112.80m間であった。
1946(昭和21)年1月工事が再開された。これまで底設に依っていた導坑を頂設に切り替え、上半を切り拡げたらすぐさまアーチを現場打ちコンクリートで打設し下半の掘削へと移った。この方法は重力を利用したズリの運搬ができないためズリ出しにはベルとコンベアを採用した。しかし工事はG.H.Q.の命令により1948(昭和23)年6月工事はまたも中止させられた。戦後の施工で完成したのは幌毛志方坑口の112.80m間であった。
=== 3度目の再開 ===
=== 2度目の再開 ===
辺富内線は新規着工路線に選ばれ3度目の着工を迎えることとなった。残っている区間は2箇所、幌毛志方が171.7m、富内側方が50.73mである。再開に先立った調査で強土圧の原因は今まで考えられていた給水膨張ではなく、地山に包蔵された応力が掘削によって開放されるのが原因であると結論付けられた。また実験などの結果により設計などが決められ、工事は1956(昭和31)年9月 - 1958(昭和33)年6月まで行われ残された区間も施工が完了した。かくして1958(昭和33)年11月15日、辺富内線改め富内線富内駅 - 幌毛志駅 - 振内駅の2駅12.940km間が開業した。
辺富内線は新規着工路線に選ばれ3度目の着工を迎えることとなった。残っている区間は2箇所、幌毛志方が171.7m、富内側方が50.73mである。再開に先立った調査で強土圧の原因は今まで考えられていた給水膨張ではなく、地山に包蔵された応力が掘削によって開放されるのが原因であると結論付けられた。また実験などの結果により設計などが決められ、工事は1956(昭和31)年9月 - 1958(昭和33)年6月まで行われ残された区間も施工が完了した。かくして1958(昭和33)年11月15日、辺富内線改め富内線富内駅 - 幌毛志駅 - 振内駅の2駅12.940km間が開業した。
== 強制労働 ==
== 強制労働 ==
86行目: 86行目:
}}
}}
'''幌毛志トンネル'''は富内駅 - 幌毛志駅間にあったトンネル。上記日振トンネルの南隣に位置する。
'''幌毛志トンネル'''は富内駅 - 幌毛志駅間にあったトンネル。上記日振トンネルの南隣に位置する。
[[カテゴリ:日高振興局のトンネル]]
[[カテゴリ:胆振総合振興局のトンネル]]
[[カテゴリ:矢板工法のトンネル]]
[[カテゴリ:廃止されたトンネル]]
[[カテゴリ:富内線]]
[[カテゴリ:開通年毎のトンネル|1958]]

案内メニュー